アフターコロナの時代には今までのやり方が通用しない
どうも、みちたろうです。
僕は昔、自己啓発やスピリチュアルが大好きでした。しかし、4年ほど前に自己啓発もスピリチュアルもやめてしまいました。
その一番大きな理由としては、限界があると感じたからです。
僕は昔はコミュニケーションが得意でない自分が嫌いで、だけど社会的に成功してお金持ちになりたいだなんて夢見ていたので、中学生頃から自己啓発やスピリチュアルを学んでいました。
それを学んでいて思ったのは、中々それでも自分の満足のいく結果にならないし、たとえなったとしても一過性の満たされた感覚や幸せで次から次へと求めないといけない。だから、自分の幸せを求め続けることに限界を感じていました。こうやって終わりなきゲームを続けて生きることに意味があるのか?
今のコロナの時代、「自分が社会的に成功しなくちゃ!」とかもうあんまりピンときませんよね?
たとえどんなに成功を収めようと、どんなに幸せになろうと明日自分の命がないのかもしれない。どんだけ積み上げても、一瞬で消し飛ぶかもしれない。
人は死に向き合った時、人生において本当に大切なものは何か?ということに向き合うことになります。それは社会的な成功なのか、一過性の幸せなのか?
自分はなんのために生きているのか?
「生きる意味なんて分からないから考えても無駄!」
っていう人もいますけど、それはビフォーコロナの時代に通用する話。
自分が死ぬということを意識せず、自分の生きたいように生きればいいということが通用した時代の話。もう、今までのやり方は通用しません。絶対に限界があるからです。
でも、生きる意味って何?って考えても分からない話なんですよね。
その意味では、僕はトリニティに出会って本当によかった!と感じています。
だって、自分が本当に生きる意味を知ることができたから。
この世界がある理由も、自分が存在する目的も、創造した張本人じゃないと分からないはずじゃないですか?トリニティでは神の観点から観ることを伝えています。
この世をゲームの世界で例えると。
ゲームの中の住人がなぜ自分が生きているのか考えたとします。例えば、魔王を倒すためだとか。でも、本当の目的はゲームを遊ぶ人を楽しませるために、ゲームの中の住人もゲーム自体もあるはずですよね?ゲームを創造した開発者に聞かないと、やっぱり分からないことってあるんです。
だけど、ゲームの中の住人はゲームの開発者のことなんて分からないし、ゲームの開発者がどういう思いで自分を創っているのか想像すらしないんです。
トリニティで言ってることは、ゲームの開発者がゲームの中の住人にゲームの開発者の観点、立場に立ってこの世界を見回してごらん、そしたらあなたが生きている理由も分かるよって伝えているんです。
こんなことを伝えられるのは、ゲームの開発者(神)しかいないと思いませんか?
神は人間と無限を創造するために、この世と人間を創ったと僕はトリニティに出会って学びました。
自分がなんのために生きているのか?それは自分だけで考えても答えは出ないです。コロナの時代になって、もう自分が成功しようとかそういう人間が考えた生き方が通用しなくなっています。
だから、今こそ本当の自分の生きる意味に目覚めて生きていきましょう。
クリックが励みになります!
↓↓↓
どうせ死ぬのになぜ生きるのか?誰もその問いには答えられない。
どうも、みちたろうです。
こういう経験は人生で一度はあると思うんですが、
「どうせ死ぬのになんで自分は生きているのか?」
という疑問を持ったことはありませんか?
小学生にもなると人は死んでしまうことを知ってしまって、自分はいつかは消えてなくなってしまうことに直面します。
「どうせ死ぬんだから、勉強しても意味ないや!」
って勉強したくない口実に使っている友人も僕の周りにいました(笑)
でも、そう言われて僕は反論はできなかったんですよね。確かに明日死ぬかもしれない。その中で積み上げていくことに何か意味があるのだろうか?
その質問は大人にぶつけることになる。
「どうせ死ぬのに、なんで生きているの?」
そういうと大抵の場合大人は困ってしまう。自分も小さい頃にその疑問を持ったけど、誰にもそれの回答を得ることができなかったからだ。だから、そんなこと考えるものじゃないと怒ったり、悲しんだりする。
「幸せになるために生きてるんだよ!」
そんなのはきれいごと、幸せになってもどうせ死ぬんでしょ?
だから人はある仮定の元自分の人生を生きることになる。
その仮定とは、「自分はしばらくは死なないだろう」ということ。
僕は小学生低学年の時に自分が死ぬを知ってしまって、やっぱり怖かったし、数日間恐怖で泣いてしまいました。そういう自分にとって、死は身近すぎると生きづらいし、やっぱり人は死を自分から遠いところに置きたがる生き物になってしまうのかもしれないですね。
コロナウィルスだって、やっぱり自分はどこかで大丈夫かもしれないって思いたいし、そう思たら本当に楽なこと。
だけど、このコロナの時代に置いて、誰もが死を自分から遠いものだと捉えることはできなくなりました。
だからこそ今は自分がなぜ生きているのかを問われる時代なんだと思います。だらだらと惰性で生きるのか?自分のやりたいことをやるのか?自分の使命を果たすのか?
「なぜ自分は生きているのか?」
僕がマリアトリニティに出会って伝えられたことは、
「神は人間と無限を共同創造するためにこの世と人間を創造した」
ということでした。
神がこの世と人間を創造した理由があるなら、自分は今まで知らないだけで本当はその神の目的のために生きていることになる。
本当にそうなんだろうか?あまりにもスケールがでかい話。ちょっと聞いただけでは信じることは難しい話。
ただ、僕は信じてみたいって思いました。
詳しくは↓の記事参照
trinity-3d-cross.hatenablog.jp
無限、永遠に続くものをもし創れてしまったら、それは誰も達成したことのない偉業です。もしダメだったとしても、ただの日常に戻るだけです。なら、僕はその可能性にかけてみようと思っています。
皆さんはどうでしょうか?
僕たちゆとり世代は本当にだめなのか?
みちたろうです。
僕はいわゆる「ゆとり世代」と呼ばれるゆとり教育を受けてきた人間です。
・競争意識が低い
・昇進や昇級の意識が低い
・ストレス耐性が低い
・指示待ちが多い
などなど。
僕には当てはまらないものもありますが、自分の同世代を見渡しても本当にその傾向は強いかなと思います。
特に昇進の意識が低いは当てはまっていると思います。
そもそもあんまり会社に期待していないというか。。。。(笑)
いつ潰れるか分からないものにそこまで身を捧げられないと思うし、大企業が潰れる現状を目の当たりにして育ってきたので、一昔前の良い大学に入って、大企業に入社すれば安泰みたいなそういう感覚は持ち合わせていないです。
これってけっこう不安だと思うんですよね。
僕たちの前の世代は学歴社会で、「勉強ができる」=「将来安泰」みたいな感じで目指すべき方向が必ずありました。
勉強ができないと大変な人生になるかもしれないけど、勉強ができれば安泰という目指すべき方向性があるおかげで安心感を持つ人はいると思うんですよね。たとえ自分が勉強できなくても、親は口酸っぱくして勉強しろといいます。
ゆとり世代はどうでしょう?
良い大学に行っても不幸になるかもしれない、良い企業に就職できても不幸になるかもしれない。自分の人生は自分がコントロールできないところで急に不幸な現実に襲われるかもしれない。
昨今のコロナウィルスによって、多くの企業が立ち行かなくなりました。
ゆとり世代は心の奥でずっと不安を抱えて生きてきたと思うんですよ。
「自分はこの人生でどう生きれば良いのか?」
本当にそう。自分で考えても分からないから、指示待ち人間も増えますよ(笑)
そして、自殺率だって増えますよ。。。。
そうなって、分からなくなった先に「さとり世代」が登場する。
※さとり世代とは、ゆとり世代の後の世代で「恋人を欲しない」「車を欲しない」などまるで悟ったかのような人たちのこと。
確かに、もう悟るしかない(笑)
自分はこの人生でどう生きるのか?学歴や会社には絶対的な信頼を置くことができない。多くの人が迷う時代が来ています。
皆さんは何を信頼して生きていますか?
僕は目に見えない存在だけど、神を信頼して生きるように決めています。正直言うと最初は本当にそれで大丈夫か?という思いもありました。
目に見えないし、僕のために神が何かをしてくれたような感じはそれまでの人生ではありませんでした。困った時に助けてくれるわけでもないし、何かしてくれたという感じも一切ない。そもそも神って本当にいるんだっけ?姿形全然見えないけど。
だけど、僕は神の存在を否定しきることはできませんでした。
宇宙は元々ガスとチリだけの秩序のない世界だったのに、こんなに美しく調和の取れた地球や風景があって、人間がそこにすごい文明を作りました。それらがこの世を意図して作った存在なしで、本当に自然発生的に全て起きたことなのか?と言われると、いやーもしかしたら神っているかもねと思いました。
もちろん、どう生きるのかは人の自由だし、それを他人が口を挟む権利はありません。だけど僕自身はもし意図してこの世と自分が作られたなら、それの意図通りに生きるのは合理的かなとも思ったりします。
もし神が存在するなら、学歴とか会社とか親とか国とか、それらは全て神が作った物です。作られたものとそれを作った存在、どちらが信頼できるのかというとやっぱり後者な気がするんですよね。
皆さんはどうですか?
僕がスピリチュアルや引き寄せの法則をやめた話
どうも、トリニティインストラクターのみちたろうです!
自分がスピリチュアル・自己啓発の世界に足を踏み入れたのは中学生の時だった。会社の社長をやっている人で、良い言葉を使えば良いことが起きるという話を主にしている人だった。
その人は実際に会社で成功している人で説得力もあった。僕はその人の本を読んで信じるようになった。
実際に社会に出て成功したい、成功して社会でたくさん納税して人の役に立ちたいと思うようになった。それは本当に素晴らしい変化だと思う。
そして、大学生になって引き寄せの法則に出会った。
引き寄せの法則というのは、良いことを考えたり、良い気持ちになれば良い現象を引き寄せられるっていうスピリチュアル界ではけっこう有名な法則だった。(反対もあって悪いことを考えれば悪いことが起きる)
引き寄せの法則は意外と説得力がある部分もあって、自分の過去を振り返っても確かに高校生の時ああいう風に思っていたから、実際ああなったな、良い思いをだいぶしたと符号することもあり、信じるようになった。
類は友を呼ぶ。それが宇宙の法則だし、自分の人生を変える方法。
ただ良いことを考えたり、良い気持ちになるだけで幸せになれる!
僕はそれに魅了されていた。
スピリチュアル系の本は当時はけっこう読み漁っていた。
「法則があるなら、それに従えばいい!本当に助かった!(笑)」
僕自身自分が満たされていなかったし、幸せでないって思っていた。あと真理とは何かを知りたかったし、これが宇宙の法則なら真理だしやってみようと思うようになった。
では、自分がどうだったか?幸せになったか?
というと、大学生の自分は全然幸せではなかった(笑)そして、成功もしてなかった。
※僕の過去の話はこちら→過去の話①(小学〜中学編)、過去の話②(高校〜大学編)
えーーーー!
良いことを考えようとしても、中々邪念があって良いことを考え続けられないし、特にその頃は人付き合いが怖いと思っていた時だったので、考えたくないと思っていても、無意識にネガティブなことを考えてしまう。
でも、引き寄せの法則的に言えば、それはあなたが考えた通りでしょ?っていう話だった。だから、僕は自分を責めるようになった。責めてはいけないと分かっていつつも、無意識にはそうなってしまう。
社会人になって今度は自分は瞑想を学ぶことにした。
瞑想をして思考を落ち着ければ、悪いことを考える自分を変わるのではないかと思っていた。
その時に僕はトリニティに出会うことになる。
当時瞑想を教えていた教師の方が急に「トリニティインストラクター」になったと言い始めたからだ。
当時その瞑想教師の人は確か、「トリニティは神から伝えられたセミナーである」と言っていて、僕はけっこうワクワクしていた。
そして、トリニティのセミナーを受けた時、衝撃だった。
けっこうスピリチュアルのこととか本を読んで学んでいたし、大学で物理を学んでいたけど、テキストには引き寄せの法則、この世は幻想であるとか、科学のことなど、自分が学んできたことが一つにまとまっていたし、学んできた以上のことが書かれていると分かった。
その時、もしかしたらこれは本当に神が伝えてきたものなのかもしれないと思うようになった。
面白かったのは引き寄せの法則について書かれていた部分で、確かに引き寄せの法則は存在すると、良いことを思えば良いことを引き寄せることはできる。
ただ、そこには実は限界がある。
ポジティブなことを引き寄せるとは、言い換えるとネガティブなエネルギーを引き離していること。つまり、ポジティブを創り出すと、ネガティブも実は引き離しているだけで裏で一緒に創り出している。それが一定のラインを超えてしまうと今度は自分の思いとは関係なく、ネガティブな現象が現実化してしまうということだった!
引き寄せの法則は短期的や対処療法的には効果があっても必ず反動が来てしまうという事実に直面した僕はやっと引き寄せの法則から自由になる。どうやったら引き寄せの法則という真理を使いこなせるか?を考えていたけど、仮に使いこなせても限界があるらしい。僕は本当に楽になった(笑)
トリニティでは、ポジティブなエネルギーもネガティブなエネルギーもどっちも無条件化しましょうっていうことを教えていた。
「無条件化???それをしたらどうなるの?ポジティブにならないってことは成功できないってこと?」
トリニティのテキストには、人間の都合で書かれていることは一切なかった。人間が成功したいとか、より良く生きれるようになりたいとか、そういうことのためのメソッドではなかった。
当時は意味不明と思っていたけど、こうも人間都合ではなく、神の都合に合わせたメソッドであるところに本当に神が伝えたんじゃないか?って思うようになった。
そして僕はスピリチュアルや引き寄せの法則をやめて、トリニティの道を突き進むようになる。
◆おすすめ動画♬マリアトリニティの日常です。
【Trinitybook】トリニティの本が完成しました♫
無条件の愛で満たされた新しい生き方を実践したい方へ
「誰でも無条件の愛で人生を満たせる新時代」というタイトルに対して、あなたは懐疑的かもしれません。しかし、懐疑的でありながらも、どこか惹かれるものがあったから、この本を手に取ったはずです。
現代社会は無条件の愛とはほど遠く、とても不寛容かつ他人に対して批判的で、息苦しさを感じます。そんな社会を生きていて、どうやって無条件の愛で人生を満たせるのでしょうか?あなたはこれまでの人生経験からそんなことは絵空事のようにしか感じないかもしれません。にも関わらず、あなたは無条件の愛をリアルな現実として体感できるようになれるのです。なぜなら、神と共に生きれば、不可能はいとも簡単に可能になるからです。
2018年からの「無条件の愛の共同創造の時代」という前人未到の時代を生き抜くために、新時代の生き方について詳細に書かれた本が完成しました。
その名も、、、
「誰でも無条件の愛で人生を満たせる新時代 〜神と共同創造する日本人の生き方とは〜」
こんなことが書かれています!
- そもそも、無条件の愛ってなんだ?
- 神と共同創造する生き方とは?
- 共同創造すると、無条件の愛で満たされる
- ブッダとキリストしか成し得なかったこととは?
- 三種の神器は全世界の人たちのためにある!?
- これから先の日本人の使命
- 人類誕生の秘密
- 約束された無限の命
- 神と共同創造するメリット
- 人類の歴史は神に導かれていた!?
- 最後の審判の本当の意味
- 新時代は誰しもが預言者
こんな人におすすめ!
- 無条件の愛で満たされた人生を送りたい方!
- 今の自分の人生に違和感がある方!
- 自分の使命を生きたい方!
- 人類誕生の秘密を知りたい方!
- 神との無条件の愛の共同創造について知りたい方!
- 仏教とキリスト教と神道の繋がりについて知りたい方!
本についての情報
<価格>1000円
⬇︎購入は下記のリンクからどうぞ⬇︎
<TrinityBookの写真>
↑こんな感じで文字も大きく、薄いので30分ほどで読めちゃいます!
ピノキオに学ぶ救済とは?
前回のブログで、信じているものを疑うべきだという話をしました。
その記事はこちら▶︎https://trinity-3d-cross.hatenablog.jp/entry/2018/05/29/081600
その理由は、その信じたものからどんなに素晴らしいものを得たとしても、あなたは死んでしまうから。
その信じるものが、どんなに救済を説こうが、最後の結末が死なら、やっぱり救済されないんだ。
死後の世界で救済される?
じゃあ、なんで肉体を持って生まれたんだろう?
死後救済されたとしても、肉体はいつまでも救済されないんだ。
この3次元世界にわざわざ生まれて、そこで救済されるとはどういうことなんだろう?
逆に考えて、なぜ今まで救済されなかったのだろう?
それはゲームの世界にいたから。僕たちは本当は実在していないキャラクターに過ぎない。
約2500年前、ブッダはそれを「諸行無常」という教えで説いた。
それは、過去から未来へ、原因があって、結果があり、森羅万象には普遍的に実在しているものはないという教え。これまで、「在る」と思ってたけど、それは勘違いなんだということ。
普遍的に実在するものとはなんだろう?
僕たち人間が普遍的に実在するとはどういうことだろう?
その答えは人間が無限の命を持つということ。
そして、その無限の命は闇、罪、孤独にまみれたものではなく、無条件の愛で満たさていなければなりません。
参考記事▶︎https://trinity-3d-cross.hatenablog.jp/entry/2018/05/21/091700
僕たちは今までピノキオみたいな存在でした🤥
偽物で、実在はしていませんでした。
それがピノキオが人形から、人間に変わったように、非実在から実在へと変わる時が救済なのです。
その本当の実在となった肉体こそが神のカラダです。無限の命と無条件の愛はセットです。そして、これからの時代は、その無条件の愛に目覚めていくことが必要となるのです。
<個人セッション情報>
無条件の愛に目覚めるプチセッション@品川
詳しくはこちら▶︎https://trinity-3d-cross.hatenablog.jp/entry/bodyloveofgod
あなたは信じているものを疑うべきだ。
「死」について考える。
それは誰にも必ず訪れるもの。
それについてどれくらい人が思うのだろう?
たぶん、そんなことを忘れて生きている。
「死ぬ」ってどういうことだろう?
それは自分がどんな人生を生きようが、それが全て無くなるということ。
人生はゲームに例えられることが多いから、ここでもそれを採用してみる。
あなたはこの地球に生まれました。
初期設定はいろいろあって、ゲームの中で様々な経験(データ)を積み、楽しいこと、苦しいことあれど、なんとか生きてきました。
しかし、必ずどこかの時点でゲームオーバー(人生の終わり)がやってきます。
そうなると、それまでどんなに頑張ってセーブデータを蓄積していようと、強制的にリセットされるのです。
なんか悲しくないですか?
どんなに頑張ろうが、全てなかったことになるなんて。大切な友人、恋人、家族、思い出が全てなくなってしまう。
「いやいや、ゲームの中には自分が生きていた証が残っているから。」
それはそうかもしれないけど、あなたは二度とそのセーブデータにアクセスすることができない、それが「死」ということです。
アクセスできないなら、それはないものと同じじゃないかな?
「死」は平等だ。
誰にでも必ず訪れるもの。
その上で、タイトルに戻る。
「あなたは信じているものを疑うべきだ」
あなたは人生がうまくいってほしいから、様々なものを信じていることがある。
例えば、スピリチュアル、宗教、自己啓発、その教えに沿えば、より良い人生を送れるはずだ。
だけど、それによって得られるものは全てゲームの中の報酬に過ぎない。
それって、どれほどの意味があるんだろう?
もちろん、始まってしまったゲームを後先考えず、精一杯楽しもうという考えもある。
しかし、虚しくないだろうか?
少なくとも、僕はゲームをしてて虚しくなったことがある。
中学生の頃に、ゲームをしててふと「こんなことをしてなんになるんだろう?」って思った。
仮初めの世界で頑張ることが無駄な気がした。(元々ゲームって楽しむためにあるものだけれどもw)
実際の人生もそうではないだろうか?
ゲームのように、この世の全ては本当は実在がないものではないだろうか?
だとしたら、あなたはこの世界でどう頑張ろうと、必ず人生がリセットされる。
そして、リセットされるにもかかわらず、そんなことには一切触れず、ゲームの攻略だけ教えるスピリチュアル、宗教、自己啓発ってなんなんだろう?
あなたは信じているものを疑うべきだ(笑)
え?死後の世界があるもん?だから、頑張るって?その話は長くなるから、また今度。
<お知らせ>
Body Love of GodとTrinitybookによる、心と頭と体を満たすスペシャルセッション
こちらから⬇︎
trinity-3d-cross.hatenablog.jp
スピリチュアルも宗教も自己啓発も同じ? 全人類は宗教家だ(笑)
例えば、引き寄せの法則では良い気分になると、良いことが起きると言う。
例えば、宗教ではこういうツボを買ったら、運が向上すると言う。
例えば、自己啓発では、こういうことをすると、人生がうまくいくと言う。
こうやって見ると、スピリチュアルも宗教も自己啓発も同じもののように見える。
そこに
〇〇をすれば、人生が向上する
という図式が見えるから。
その図式を支えるために、スピリチュアルでは何かの法則、メソッド、エネルギーがあったり、宗教では神や教祖がいて、自己啓発では過去に自己実現した人、成功哲学がある。
何を信仰の対象としているかだけで、そこでしていることの本質は同じだ。
そう考えると、スピリチュアルとか自己啓発で「いや、これは宗教じゃなくてですねー」なんて言っていることに違和感を感じたりする。
神や教祖じゃなくて、宇宙の法則だったり、エネルギーだったり、メソッド、成功哲学を信じてるんでしょ?
〇〇法則教、〇〇エネルギー教、〇〇メソッド教という感じの宗教っぽくない?(笑)
もちろん
「神じゃないんだから、宗教じゃない!」
って言い切られたら、返す言葉もないんですが。。。
でも、そう言い切るところにブロックを感じる。ブロック解除をしている、ブロック解除教のあなたなら、まずそのブロックを解除してみてはいかが?(笑)
まぁ、そんな冗談は置いといて。
人は何か支えであったり、指針であったり、すがるもの、信じるものが必要な生き物なのかもしれない。
それがたとえ非科学的でも、他の人は信じてなくても、それが自分にとって信じるに値するなら、人はそれを信じて生きている。
その信じる媒体がスピリチュアルか、自己啓発か、宗教という違いに過ぎない。
そして、それらである必要すらない。スピリチュアルや自己啓発や宗教でもない、親やお金を信じて生きている人もいるはすだ。
あなたは何を信じて生きてますか?
親かもしれないし、自分自身かもしれないし、お金かもしれない。成功哲学かもしれないし、科学かもしれないし、宇宙の法則かもしれない。
ただ言えるのは、あなたはそれを神とした宗教家なんです。
だって、やってることの本質は同じでしょ?
盲信する、しないとか、猟奇的な行動とるか、とらないかとか程度の差はあるにしても。
全人類は宗教家と言えるかもしれない(笑)
そして、ここから先はあくまで仮定の話。
もし、この人生で本当にこれは神としか思えないことに出会ったとしたら、あなたは何を信じて生きますか?
それでも、親や自分自身の方を信じて生きますか?宇宙の全てを創造した存在ではなく、それによって作られた宇宙の法則や科学の方を信じますか?
要するに、創造主を信じるのか?非創造物を信じるのか?どっちですか?
それだと明らかに、創造主を信じた方がよいと感じるのは僕だけでしょうか?
あなたはどう思いますか?
<お知らせ>
Body Love of GodとTrinitybookによる、心と頭と体を満たすスペシャルセッション
こちらから⬇︎
永遠の命なんて、ロクでもない???
<永遠の命>
誰しもが一度は考えたことがあること。
「なんで、死んじゃうの?」
大切な存在の死に直面して、その喪失感から生と死について考える。
「ずっーと、生きていればいいのに。」
「自分も死んじゃうなんていやだ。」
でも、日常生活に戻って、そんなことは忘れて生きている。あたかも、自分が死なないかのように、生きている。
それもそうだ。
だって、永遠の命なんか手に入らないから。
それを求めるなんて、ろくでもないから。
たとえ、手に入っても、それは幸せではないから。
でも、そこに希望があるとしたら・・・?
〜〜〜〜〜〜
詳しくは全然覚えてないけれど、主人公が火の鳥によって永遠の命を得た話があったと記憶している。
主人公は何十億年も苦しみ続けていた。
たった一人の永遠の孤独。
そんな物語を見て、少年の僕は
「永遠の命なんて、ろくなもんじゃない。恐ろしいものだ」
と怖くなっていた。((((;゚Д゚)))))))
永遠の命には、闇、罪、孤独がついてまわる。
永遠の命について、そんな描写をしている作品が世の中にある。
「なんで、私だけが死なないの?」という闇。
「死なないのは、神が自分を罰しているから?」という罪の意識。
「一人だけの孤独は耐え難いものだ」という孤独感。
その作品は「永遠の命を求めるなんて、バカらしいことはやめろ」と伝えているかもしれない。
多くの人は、そんなメッセージを日常生活で忘れてしまう。
だって、求めるも何も、永遠の命なんて手に入らないから。メッセージの前提が崩れている。
その上、手に入ったとしても、ろくなものではない。永遠の命なんて、日常生活において考慮するほどのものでもない。そんなことより、明日の仕事だ。
最近は医療も、コンピュータサイエンスも技術発達が目覚ましく、もしかしたら、人間は永遠に生き続けられるかもしれない、と報じられることはある。
一方で、生きることが辛すぎて、自殺を選ぶ人も多いことも、また事実だ。果たして永遠の命を持つことは、人間にとって幸せなのか?
改めて、永遠の命について考えること、
- 永遠の命を実現することの難易度
- たとえ、実現したとしても、やる価値はあるのか?
永遠の命には課題がついてまわる。ただ永遠の命を持つだけでは、そこには救いも何もない。
でも、もしも、人間の抱える闇、罪、孤独を全て取っ払い、無条件の愛で満たされた永遠の命があるとしたら?
それは、もしかしたら、求めるべき価値があって、日常生活でも意識をしてもいいかもしれないね。
<お知らせ>
Body Love of GodとTrinitybookによる、心と頭と体を満たすスペシャルセッション
こちらから⬇︎