どうせ死ぬのになぜ生きるのか?誰もその問いには答えられない。
どうも、みちたろうです。
こういう経験は人生で一度はあると思うんですが、
「どうせ死ぬのになんで自分は生きているのか?」
という疑問を持ったことはありませんか?
小学生にもなると人は死んでしまうことを知ってしまって、自分はいつかは消えてなくなってしまうことに直面します。
「どうせ死ぬんだから、勉強しても意味ないや!」
って勉強したくない口実に使っている友人も僕の周りにいました(笑)
でも、そう言われて僕は反論はできなかったんですよね。確かに明日死ぬかもしれない。その中で積み上げていくことに何か意味があるのだろうか?
その質問は大人にぶつけることになる。
「どうせ死ぬのに、なんで生きているの?」
そういうと大抵の場合大人は困ってしまう。自分も小さい頃にその疑問を持ったけど、誰にもそれの回答を得ることができなかったからだ。だから、そんなこと考えるものじゃないと怒ったり、悲しんだりする。
「幸せになるために生きてるんだよ!」
そんなのはきれいごと、幸せになってもどうせ死ぬんでしょ?
だから人はある仮定の元自分の人生を生きることになる。
その仮定とは、「自分はしばらくは死なないだろう」ということ。
僕は小学生低学年の時に自分が死ぬを知ってしまって、やっぱり怖かったし、数日間恐怖で泣いてしまいました。そういう自分にとって、死は身近すぎると生きづらいし、やっぱり人は死を自分から遠いところに置きたがる生き物になってしまうのかもしれないですね。
コロナウィルスだって、やっぱり自分はどこかで大丈夫かもしれないって思いたいし、そう思たら本当に楽なこと。
だけど、このコロナの時代に置いて、誰もが死を自分から遠いものだと捉えることはできなくなりました。
だからこそ今は自分がなぜ生きているのかを問われる時代なんだと思います。だらだらと惰性で生きるのか?自分のやりたいことをやるのか?自分の使命を果たすのか?
「なぜ自分は生きているのか?」
僕がマリアトリニティに出会って伝えられたことは、
「神は人間と無限を共同創造するためにこの世と人間を創造した」
ということでした。
神がこの世と人間を創造した理由があるなら、自分は今まで知らないだけで本当はその神の目的のために生きていることになる。
本当にそうなんだろうか?あまりにもスケールがでかい話。ちょっと聞いただけでは信じることは難しい話。
ただ、僕は信じてみたいって思いました。
詳しくは↓の記事参照
trinity-3d-cross.hatenablog.jp
無限、永遠に続くものをもし創れてしまったら、それは誰も達成したことのない偉業です。もしダメだったとしても、ただの日常に戻るだけです。なら、僕はその可能性にかけてみようと思っています。
皆さんはどうでしょうか?